【川反の起源】

「かわばた」という地名は川のほとりという意味で「川端」と書くのが普通である。これを「川反」と書くのは大変に珍しい。  藩制時代には「川端」と書いていたようで、当時の住人はほとんど武士であった。  しかし、街つくりが進むにつれて「川端 は町人の街となり武士は川の東側に移り住んだ。このため川の西岸沿いにある「川端 は武士から見て川の反対側に位置するようになった。こんなことから「川反」の字が当てられるようになったとか。  町人の町・川反が生まれ変わる転機となったのは明治十九年の大火(俵屋火事)。この火事で焼失した芸者屋、料理店が川反四丁目に次々と移転を始めたのだ。これが歓楽街・川反の始まりである。

【芸妓物語】

明治末、大正から昭和初期にかけて、戦争特需などを背景として歓楽街・川反は栄華を誇った。そこに咲いた花が川反芸者である。川反芸者は器量よしで、踊りも唄も上手。県外から訪れた客によってこの評判は全国にとどろいた。 しかし、川反芸者は踊りと唄がうまかっただけではない。  本県婦人運動の先駆者・和崎ハルが大正十三年に開設した「芸妓学校」。ここで毎週日曜日、約五十人の芸者が国語、書道などのほか希望者は英語まで習ったという。このため川反芸者のお座敷は話題も豊富。こんなことからも川反芸者の名が高まったのだろう。  昭和初期には百五十人もいた川反芸者だが、現在ではわずか数人のみ。 とはいうものの、若い舞妓さんも登場し、川反の華やかさはまだまだ健在だ。

【秋田美人】

もともと秋田美人という言葉は、明治の終わりから昭和の初めにかけて秋田を訪れた多くの文人達が、川反の芸者衆「川反芸者」を指して使ったのが始まりとされている。  文豪・谷崎潤一郎は明治末に「敦(いず)れも恋の奴のような恍惚(うっとり)と物に憧るる表情」などと川反の女を描写している。 谷崎に限らず何人もの文筆家が川反風俗を書いたことで、川反芸者つまり秋田美人は全国的に知られるようになった。  こうして全国に名をとどろかせた秋田美人という言葉だが、やがて時代とともに一般的な表現となり、今では秋田女性の代名詞になっている。  秋田美人の特徴は、背が高くやや面長で目は細く切れ長、口は小さく、鼻筋が通っていること。そしてなによりきめの細かい色白の肌が有名である。

【旭川】

川反の川とは秋田市内の中央を貫いて流れる旭川のことである。旭川は秋田市と五城目町にまたがる馬場目岳と山伏森に源を発し雄物川と合流して日本海へと流れ出る。  このため米どころ仙北・平鹿地方から米・薪・木炭を運んでくる川舟にとっても欠かせない川であり、古くは添川、仁別川、保戸野川とも呼ばれて人々に親しまれてきた。  久保田城(現・千秋公園)築城以前は現在の広小路付近を流れていたが、築城(約四百年前)を機に堀り替えてほぼ現在のような流れになった。「旭川」の名前がついたのは寛政年間。秋田をこよなく愛した菅江真澄翁(三河・愛知県出身)が言ったのを藩主・佐竹義和公が採用したものだ。